弁護士等情報

地震の日々

一、地震による建物被害は、尼崎では、築30年以上の老朽木造建物に集中した。低所得の借家人が、長年にわたって住んでいる場合が多く、その家賃は、月1万円から精々5万円と安かった。零細な家主が多く、50才代までの家主は、かねてからの願望である借家人を立ち退かせて、土地を売却するなりマンションを建てる好機が到来したと考え、60才代以上の家主は、修繕費用の捻出に苦しみ、ガレージにでもしておこうと考え、借家人の追い出しに突き進む人たちが多かった。一方、地震の3日後には、大阪、尼崎、伊丹近辺では借家は、全部おさえられていた。
 すなわち、地震前と地震後では、借家事情が一変しており、家主の立ち退き要求に応じても、尼崎やその近辺で、新たな借家を見つけることは、不可能であった。
 家主の立ち退き要求に悲鳴を上げる借家人の膨大な群れに対し、この事実を一日も早く、知らせ、従来の借家で頑張るための法的知識を与え、励まし安心させることが焦眉の急であった。1月27日、私は市内の賃貸仲介業者五軒をまわり、余分な借家が一軒も残されていないことを知った。そして、気が変になった。
 私は、日本共産党尼崎後援会会長である。
 すぐ、地区(同党尼崎地区委員会のこと)に連絡して、市内各所で、借家、借地人の権利保護のための説明、質問集会を開いて貰うことになり、そこで、私は「今、借家を出ても、住むところがみつからない云々」と一時間ほど説明し、その場で、質問に答えることを、続けた。
 又、地震と借家・借地人の居住権についての連載物を毎日書き続け、これらは、被災対策ニュースの一部として赤旗に折り込まれると共に、市内の共同住宅・長屋の密集地帯や避難所などで、連日、何千枚と配布された。
 2月13日に、これらをまとめて、地区の名で、パンフにした。パンフは、5000部印刷されたが、すぐに、品切れとなり、更に、5000部増刷された。
 1月29日、阪神大震災尼崎被災借地・借家人の会が結成された。実体はなかったが代表世話人に、十数年前、悪徳サラ金退治で勇名をはせた尼崎民商の田中祥晃さんが就任して下さったことは、会の今後の発展を約束するものであった。当時、会には、事務所もなければ、電話もなかった。私は、会の名で直接、市民の中へ入って行きたいと考えた。
 先立つものは金だ。かって、同じ事務所にいた垣添誠雄弁護士を、訪ね、「尼崎の借家人が危ない」と言って、100万円のカンパを無心し、その場で帯封のついた100万円を受け取った(垣添さんは、恐怖神経が脱落していて、もろもろのヤクザと一人で戦い、その度胸を買われて、日弁連ヤクザ対策委員会の副委員長になっていた。しかし彼の一番の長所は、気持ちが優しいことである。)
 私も、貯金をおろし、100万円つくり、田中さんに渡した。田中さんは、会の名でビラを作り、朝日、毎日等の五大新聞に折り込んで、借家・借地人の権利保護集会を多くのところで開き、200万円を使い切ってしまった。私は、そこで説明し、質問に答え続けた(会のその他の活動については、ここではふれない)。
 地震から、二ヶ月間で、私が説明し、質問を受けた人達は、1200人である。パンフは、8000人の人達の手に渡ったとのことだ。
 賃料の安い災害公営住宅をたくさん作ること、修繕費用に苦しむ家主に公費補助をすること、これが、会の運動課題となった。会は、500人の人達を組織した。
 そこまで見届けて、3月中旬、私は、弁護士の仕事に戻っていった。

二、本当に緊張したのは、1月29日から、10日間だった。その頃、私は、二重人格者だった。別の私が、弁護士の私を、指図し、そのとおりに、私は動いた。
 集会で、一番困ったのは、「借家を出るな」と助言しても、裁判になったら、勝てるかということだった。従来の判例では、負けると思われる場合が多かった。しかし、他に、行く所はない。私は、「出るな、そのうち、情勢が好転する」と述べていたが、情勢がどう好転するのか、知りたいのは、私自身であった。「法律家として、俺は、まちがっているかもしれない。しかし、神様はきっと許してくださる。」と妻に口ばしったり、集会の途中で絶句したりして、私は、神経が極度に不安定になっていた。
 当時、奇妙なことが起こった。雨にぬれて、街を歩くと、女性が傘をさしかけてきて私を駅迄送ってくれた。法務局の前の大通りを歩いていたら、男性が「先生の言うとおりしたら、供託できました」と、満面に笑みをうかべて、話しかけてきた。
 二人とも、集会で、私の話を聞いたのだと言う。弁護士二三年目にして、私は、初めて、人々――尼崎の貧しい借家人達――に愛された。

三、科学的社会主義の射程距離についての、問題意識が、この20数年来、私の頭になかったといえば、嘘になる。地震の日々、駅で、リュックを背負い、打ち合わせする若者たちのグループを、毎日、見かけた。ボランティアだ。やむにやまれぬ気持に駆られて、多くの若者たちが、阪神へ、阪神へと急いだ。何をなすべきかが、 明確になった時、日本人は、日本の若者達は、ひるまず、立ち上がる。
 私のなかで、何かが、ふっ切れた。
 理論は、所詮、道具にすぎない。科学的社会主義や政党の運命がどうなろうと日本民族は、今後も前進していくだろう。

四、地震は、人を殺し、物を壊した。何一つ、いいことはしなかった。
 新聞で読んだのだが、小学六年生の龍馬君を地震でなくされたご両親が「せめて夢で会えないものか。」と願い、又、お母さんは、天国の龍馬君へ手紙を書いた。そのなかで「地震の前の晩『お母さんのふとんとまくらは、いいにおいがする』と言って、私のふとんにもぐりこんでしまった龍馬」と呼びかけている。
 地震に強い街を作るべきだ。

(平成7年5月記)