弁護士等情報

ある過労死事件―個人的感想―

1.尼崎にOさんという60才過ぎのタクシー運転手がいた。高血圧症だったが、治療を必要とする程ではなかった。若い頃、競輪の選手だった彼は、律儀な頑張り屋であり、愛妻家で「年がいったら、ばあさんと旅行してまわるんだ。」と楽しげに同僚に話したりしていた。
 毎日、日中だけ働いていたが、車の効率的使用を重視する会社から隔日勤務(当然、夜間、深夜労働となる)で働くことを要求され、「生活が不規則になる」として二度までは断ったが、嘱託の身分ゆえ、三度目は断り切れず、隔日勤務形態で働き始めた。
 それからわずか3ヶ月後の厳冬の午後、ハンドルを握ったまま、就業中に脳内出血で倒れているところを発見され、意識不明のまま、亡くなった。昭和60年2月のことである。
 隔日勤務労働が原因としか考えられない。遺族(当時58才の妻)は、労災認定を監督署に請求したが却下され、私のところへやって来た。一緒に来たのは組合書記長のNさんと非組合員だが、Oさんの親友だったTさんである。
 Nさんは問題を組合で取り上げようとしたが、組合は「このケースで労災が認められると、会社は60才過ぎの労働者を雇わなくなってしまう。」との理由で協力を断ってきた。Nさんは憤慨していたが、間もなく退職してしまった。私は代理人となって、県の審査官、東京の保険審査会へ労災認定を求めたが、退けられた。タクシー運転手の脳内出血死に労災が認められたケースはない。遺族は几帳面で礼儀正しい方であるが、他面、神経過敏なところがあった。しんどいことを想像すると、その想像だけで疲れてしまい、足が踏み出せないというタイプである。又、遺族は大変貧しく、東京の審査会に行く際の私の交通費も出せなかった。これらの事情が重なり、遺族は「裁判はやらない」と断ってきた。私はわけのわからないことを沢山述べ立て、委任状をとりつけ、無理やり神戸地裁へ提訴してしまった。平成2年になっていた。
 新聞報道を見て、東播の渡部、神戸の松山、本上の3弁護士(以下、3名を総称して「弁護士さん」ということがある)が「押しかけ代理人」に着任した。私も3名も、もとより着手金はゼロである。印紙代、郵券の類は私が出した。長々と書いてきたが、ここまでは4年前のザ・団に書かせてもらったことの復唱である。話は、この先まだまだ続く。

2.「代理原告」上原本人
 この裁判は、今年3月、神戸地裁で1審の判決がおり、労災が認められた。新聞、テレビで報道されたので、ご存知の方もいよう。私は、1審の裁判を総括できるような器ではない。弁護団会議には途中でついていけなくなった。最初のころ、「弁護士さん」たちは、私に、色々、意見を聞いていたがある日、私が何か言った折に怪訝な顔をして私を見つめ始め、それから急に優しくなり質問しなくなった。その代わり、「弁護士さん」は私を原告本人とみなすと内部的に決めたようで、後述するように、頭を使わぬ代わりに身体を使うことを私に厳しく求めてきた。遺族は、最初の頃、弁護団会議に2~3度出たが、気疲れしてしまい、「もう厭です。先生のせいです」などと言い、出なくなった。そこで、私が原告の代わりに弁護団会議に出席して、終わりに「本日は暑いところ(寒いところ、雨のところ)ご苦労さまでした。」などと挨拶し、これを足かけ4年続けた。「本日はお日がらも良く」とやり、「弁護士さん」に叱られたこともあった。タクシー運転手と高血圧の関係については、金沢のH医師が調査・研究しており、渡部・松山両君がH医師と連絡を取り、何度も金沢に出かけ、証言していただくことになった。又、タクシー運転手の労働実態については、阪神タクシー労働組合のK書記長が証言して下さった(これをお読みの皆さんは、今後は阪神タクシーに乗ってください)。これらができたのは、藤原精吾以来の神戸の労災・職業病組織の活動・伝統に負うところが多大であると考える。会社は、案に相違して就業の実態や健康診断の結果等を隠すことなく、提供してくれ、本上君が、何度も会社に通って調査し、原本も預かってしまった。又、主治医の一人は保険医協会のIさんで、同氏は進んで証言台に立ち、Oさんの高血圧は治療を必要とする程ではなかったと述べて下さった。これらは、勝訴判決に導く幸運な因子であった。しかし、Oさんの職場で働く同僚の証言が決定的に重要である。「弁護士さん」に指示されて、私はかつての親友Tさんを会社に訪ねた。一度目は「日を改めて来てくれ」とのことであり、二度目は会うわずか2時間前になって人を介して電話があり、「会いたくない。二度と来てくれるな」とのことであった。8年の歳月は友情を風化させていた。そこで、退職した元書記長のNさんを探せということになった。私は住所も事務所も尼崎なので私が探すことになった。調べてももちろん分からなかった。ある日、尼崎の繁華街ですれ違った人物がNさんに似ている。振り返ると向こうもこっちを見ている。Nさんだ。Nさんは艶福家か女癖が悪いか、そのどちらかであり、奥さんと別れて、ソープランドのそばの六畳一間のアパートで一人で住んでおられた。きれい好きな方で、いつも洗濯物が干されてあり、食卓にお孫さんであろう子供らの写真をにぎやかに飾りたてている。歳月は流れ、既にNさんは60才になっていた。Nさんは証言を断った。そのうえで「それは組合の仕事ではないか」とか、「遺族が熱心でないのは間違っている。」などと正論を吐かれた。しかし、Nさんは「二度と来てくれるな」とは言わなかった。又、Nさんが正義感の強い方であることは、組合側からではなく、会社側から聞いていた。それを頼りに、私は二ヵ月に一度くらい訪ね、神戸の若手の弁護士が一生懸命にやっている云々と雑談を繰り返していた。ソープが手入れを受け、営業停止となり、再開する。そんなことを二度続けて又、秋が巡ってきた。秋になると、人間は真面目になる。受験生も反省しだすのは、秋だ。ある日、Nさんは「証言しなくちゃいけないのは、本当はよく分かっているんだ」と呟いた。次に訪れたとき「30分で済むか」と尋ねてきた。「もちろん」と私は答え、Nさんは証人に立つことを承諾された。本上君が、踊り上がって喜び、Nさんとの打合せを開始した(Nさんの証言は、実際は2時間かかった)。Nさんが証言をためらったのは、証言すれば会社がNさんの再就職先に対して意地悪をすると判断していたためと思われる。
 又、こんなことがあった。
 Oさんは、深夜、帰社後、玄関の中、三方吹きさらしの駐車場で時間をかけて洗車した。これが、血圧を増進させた。
 「弁護士さん」らは、私に、洗車場の写真を撮って来るように命じた。昼間、写真を撮りに行ったところ、従業員が数名、怪しげな奴だとばかり、出て来て私を取り囲んだ(そのころ、組合も従業員も敵と等しかった。むしろ会社の方が味方だった)。これに懲りて、女房運転の車に同乗させて貰い、6月の早朝午前5時前頃、会社へ行った。その頃なら従業員も出社していないであろうからである。
 敷地内の洗車場に入ろうとしたところ、南無三、入口に犬がつながれており、ウウーッと唸る。私は裏声で語りかけた。「やい、犬。私が敷地内に入らんとするは、泥棒のためにあらず、世のため、人のためなり。ひいてはお前ら犬のためなり。」人柄の良い、懐の深い犬と見えて、暫くするとそっぽを向き、私が敷地内に入るのを見て見ぬ振りをした。
 私は、中に入り、洗車場の様子を何枚も写真に撮り、感謝のしるしに犬も撮り、検甲号証として裁判所に提出した。犬と洗車場とは何の関係もないが、裁判所も国も気づかなかったと見えて、別に聞いてこなかった。
 撮影の帰途、女房から「邦ちゃん、ここまでしないと駄目なの?それ、弁護士の仕事なの?」と聞かれ、「俺も同じことを考えていたところだ」と答え、質問の核心をそらしたが、みじめだった。
 最後の決定打は、原告本人尋問でなければならない。「弁護士さん」は遺族が勝手に訴えを取り下げるのではないかと、心配していた。裁判も終わりに近づくと「弁護士さん」らの口調には勝利を確信した節がチラッチラッと窺われるようになり、それに比例して「遺族は大丈夫でしょうな」と私を詰問する頻度も増えていった。
 おそるおそる遺族に伺いを立てると高揚した調子で「分かってます」と快諾してくれた。思うに、その時、月の運行と、遺族の波長がピタッとかみ合ったのではあるまいか。
 遺族は、現場労働者の妻としては稀有のことと思うが、若い頃から毎日、日記を付けており、それにOさんの日常――隔勤になってから、しんどくなっていく状態――がこまごまと記されていた。夫婦仲は良かったのである。
 それを基に、遺族は過不足の無い証言をした。
 そして、勝訴した。

3.3弁護士は素晴らしい

(1) 一審の裁判のあいだ、私が事務員さんに何度も述べたことがある。
 それは「日本の弁護士は素晴らしい」ということだ。渡部、松山、本上三君は、着手金も払って貰っていないのに、分厚い医学書などを買い込んで猛勉し、金沢くんだりまで何度も出かけ、恐らく所属の事務所には経済的に迷惑をかけたであろうに、最初から最後まで熱心に取り組んだ。彼らをつき動かしたのは、正義感だけである。
 私は、弁護士よりも原告本人としての役割を演じたので、彼らの素晴らしさがよく分かった。
 彼らの活動を見て、日本民族は信頼に値するとさえ、思ったことがある。

(2) タクシー運転手の脳内出血死に、労災が認められたのは今回が初めて、ないしは初めてに近いと聞く。そうすると、二審で敗訴しようとも、一審勝訴の先例的価値は失われないものと思われる。「弁護士さん」らの具体的理論構成は立派なものだった。同時に、私が無理やり見通しもなく、裁判を起こさなかったら、一審判決が 不存在だったことも事実である。
 物事が進捗するには、軽率な人間が不可欠である。

(3) 一審判決は「処分を取り消す」とあるだけで、幾ら払えとは書いていない。遺族を連れて監督署へ行き、金額を聞き喜んだら、その日、控訴されてしまった。
 楽しみは長引く程大きいと思うことにしよう。
 「弁護士さん」が金沢へ行く交通費や宿泊費、本代などは、遺族は今も知らないが、私が原告本人として概算で支払っていた。
 回収できるとは思っていなかったが、一審で勝ってしまい、急に気になり、事務員に計算させると「つけているだけで55万円、実際は70万円近くでしょう」との答えである。
 バブルの時に、良い思いをさせて貰ったこともないとは言えず、その罪滅ぼしのつもりで始めたことだが、事務所は、今年に入って赤字である。こんな道楽は、今後はもうやれないだろう。そういう次第で、二審での「弁護士さん」の活躍を願うや、切なるものがある。

(平成6年5月記)