弁護士等情報

年に一度のおしゃべり

1 山内康雄君(以下、「山内」と略称する。)と私は、修習同期で、神戸で修習を共にした。私のほうが、7~8歳年上だった。
 神戸の私の下宿に、山内が泊りにきて、寝るときに、僕は、心臓が悪い(?)とか、不整脈(?)だとか漏らし、神経質なので、なかなか眠れないとこぼしていた。それは、大変だなと話をしていて、声がしなくなったので見ると、山内は、スヤスヤと寝息を立てていた。
 私は、その頃も今も、睡眠導入剤がないと眠れない。こんなことがあるのかと、山内の寝顔を見ていた。

2 もう7年も前になるが、のちに触れる自由法曹団の古稀団員のご紹介と題する文章を、山内が書いてくれた。私が、いかに変人かを、実例を挙げて論証しているが、筆が逸れた箇所もあって、「上原さんの活動とは直接関係ありませんが、上原さんの妻の洋子さんは、云々。」とあり、「私個人は、どちらかというと、修習生や独身弁護士時代を通じて、彼女の方にお世話になっています。」と書いている。
 これは、本当だ。
 山内は、痩身であり、メザシとの愛称で呼ばれていた。女房から、メザシちゃん、メザシちゃんと話しかけられるたびに、彼は、相好を崩していた。

3 山内は、神戸の小牧さんの事務所に入り、旧神戸第一法律事務所に移り、そこに長くいて、晩年は、また、小牧さんの所に戻っていった。
 山内は、夫婦仲がよかったが、たしか、小牧さんが若い女性を紹介して、彼は、妻とした。
 山内について小牧さんに聞いたら、小牧さんは、いつも笑みを含んで話してくれた。小牧さんは、山内の人となりを愛していたのだと思う。これは、人間の力では、どうにも制御できない、相性とでもいうべきものかもしれない。
    

4 前 哲夫君が、自由法曹団通信に、山内康雄君の思い出との題で書いている。
 その中で、八鹿高校事件を頂点とする南但馬での部落解放同盟による集団暴力事件に関し、山内が、専従となり、4年間と記憶しているが、果敢に活躍したことに触れ、「その名は、確実に歴史に刻まれています。」と述べている。そのとおりだが、記録が確実に保管されているかどうか、心配だ。
 あの時の彼の功績は、時を経て今も光を放っており、山内についてのあらゆる弱み-たとえば、話が長すぎる、その他―を補って余りある。

5 さて、私は、高齢者と定義とされる65歳を機に、法律家団体等の集会に参加しなくなり、共同弁護団等とも無縁になった。
 それから、4年経って、69歳の時に、山内が 兵庫 西宮の私の事務所(その頃、私は兵庫 尼崎の事務所を閉鎖し、阪神西宮駅前で開業していた。)に会いに来て、自由法曹団の古稀集会に参加しないかと聞いてきた、俺は何もやっていないから、参加しないと答えると、それでは、挨拶文を書かないかと誘ってきた、これも、挨拶するようなことはないと、断った。そうすると、「それでは、僕が書くけどいいか」と聞いてきた。「俺は止めない」と答えた。
 それが、2で述べた紹介文だ。
「最後に一言。・・・・・・・しかし、私からみれば、上原さんは他の団員の団的活動実績については正当に評価しておられますし、前述した彼の経歴や活動の一端をみても、彼の基本姿勢は団の流れのなかにあると思っています。」
と書いてくれた。
 これは、苦心した表現だ。長年 活動に参加せず、会費だけ払って、古稀を迎えた団員をどう表現したらいいのか。苦労するところだ。
 山内の友情に満ちた眼差しを感じて、この紹介文は、大切にしまっている。

6 4年ほど前になるが、山内が、体を悪くして、ほとんど働けなくなったということを何かの折に知った。(その頃、私は兵庫 西宮の事務所を閉鎖し、大阪 梅田のヨドバシカメラ前で開業していた。弁護士会も兵庫から、大阪に変わり、兵庫の弁護士の情報は入ってこなくなっていた。)
 小牧さんを訪ね、事情を聴いた。その時、山内と会ったかどうかは、覚えていない。
 翌年から、阪急御影駅前の喫茶店で、毎年一度、山内と会い、生活、病気、仕事のことを詳しく聞くことを常としていた。
 昨年、会った時は、喫茶店は、潰れており、裏の(表というのが正解か。)ケーキ屋さんの店内で何か食べながら話した。
 手術は成功したとのことで、自宅からここまで、歩いてきた、歩行距離をもっと伸ばすつもりだと述べていた。そうか、それはよかったなと喜び合った。
 今年(2016年)の1月だったか、山内が神戸青法協のメーリングリストに何かむつかしいことを書いていることを知り、元気で何よりだと思った。しかし、むつかしいことを書く癖は、直っていない。
 2月の22日のことだったと思う、自由法曹団通信を読み飛ばしていたら、末尾の頁で、死去 2月10日 山内康雄 兵庫 25期とあった。
 驚愕して、神戸の佐伯君と、小牧さんに、電話したら、本当だという。
 死に顔を見届けたかったと思った、同時に、俺は死ぬのは怖くない、今日ただいま死んでも、怖くないと思った。これは、以後私の死生観を決定した。
 姫路の竹嶋君、前田正二郎、神戸の山内と早すぎる死が矢継ぎ早に相次いだ。竹嶋、前田両君は、地の塩として生きた。山内は、社会正義を追及した一生だった。そうではあるが、日本人男性の平均寿命が、80歳を超えた今、納得がいかない。しかも、多すぎる。
 団は、兵庫の団は、それぞれに違った魅力、強みを持つ誠実な人物を、1年弱の間に3人失った。
 直接の死因は、病魔によるにせよ、若いころからの過労と強いストレスが、彼らの身体を徐々に蝕んでいたのだろうか。
 遺された家族を想うとやりきれない。

7 山内が亡くなったことを知ってから、2日経って、山内の笑顔がしきりに現れて消えない。修習生の時に知っていたあの笑顔で、口を少し開き、私に、笑いかけてくる。
 なんだろう?
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 そうか、無事に成仏できたのか、それを伝えに、姿を現したのか。そう、気が付くと私の心は落ち着き、山内の姿は次第に遠ざかっていった。
 また 会おう 山内。

(平成28年6月 記)