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阪神大震災と私   ー兵庫県借地借家人組合20周年記念集会(2015年7月18日)での、メッセージ及び配布された冊子からー

阪神大震災と私
― 兵庫県借地借家人組合20周年記念集会(2015年7月18日 )での、メッセージおよび配布された冊子 *1 から―

1 お祝いのメッセージから
 
 借地借家人組合創立20周年おめでとうございます。
 「20年」というとやはり、阪神淡路大震災がよみがえってきます。神戸、芦屋、西宮だけでなく、尼崎市でも家屋の全壊が603軒・半壊は3966軒、一部損壊まで入れると本当に大変でした。せっかく生命が助かったのに住むところを失う、または震災を理由に追い出されそうな被災者がたくさん生まれました。こんなことは許せないとすぐに行動を起こした、藤本護市会議員(当時)、田吉祥晃さん、上原邦彦弁護士たちへの敬意を思い起こします。被災者のために「借地借家人の会」をつくろうと、準備が始まりました。当時私は、日本共産党尼崎市会議員団の事務局長をしており、議員団としても一緒に取り組んだのです。被災直後のある日、阪神尼崎駅北側の広場で「街頭相談会」を開きました。晴れてはいましたが本当に寒い日でした。藤本さんや田中さん、上原弁護士などと「寒いなあ。住むところがなくなるなんてどんなに不安だろうか」と言いあったことを思い出します。
 1月29日、インキュベーションセンターで「阪神大震災尼崎被災借地借家人の会」が結成されました。私は、集会の司会をさせていただきました。そして集会後、相談会が開かれました。尼崎民主商工会、尼崎生活と健康を守る会、尼崎医療生協、日本共産党尼崎市議団などが相談に乗りました。この会を立ち上げるときは、お金もないし事務所もありませんでした。上原弁護士と垣添誠雄弁護士が100万円ずつ立ち上げ資金を用意してくださいました。びっくりしました。本当に尼崎は住民運動が根付き底力がある、人材だけでなく人情があるとつくづく感動しました。
 その後、正式に尼崎借地借家人組合となり、借地借家人組合兵庫県本部に発展しました。今後の問題として、一般の人たちだけでなく若い人たちの住宅問題、被災者の借り上げ追い出し問題など組合の出番が増えると思います。
 ますますのご活躍をお祈りしています。私もご一緒に頑張ります。
             日本共産党県会議員 庄本えつこ
2 冊子から

(1)全大阪借地借家人組合連合会 事務局長代行 船越 康亘
創立20周年にあたり、震災当時、必死の思いで住みつづけられる住まいを求めて活動した姿を思い浮かべています。
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・・・・寒風が吹きさらす中で組合づくりの下相談を行ったことを思い浮かべます。その中の一人として、正義感に満ち溢れる上原邦彦弁護士の奮闘には、尼崎借地借家人組合の結成に欠かすことができませんでした。
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 何はともあれ、平成7年1月17日のあの大震災は、尼崎借地借家人組合結成へ大きな契機となりました。‐12頁-

(2)20周年座談会 2015年6月5日 から
田中組合長 ● *2
 この組合は1995年6月に発足しました。その年の1月17日に阪神淡路大震災が発生し、そこで尼崎には6万戸全半壊が出た。・・・・・・・(政府は)半壊住宅には解体費用を助成しますと、150万円出るということになり、そして半壊住宅に住む人には、もう家主はこれに追い出しをかける、そこに大阪から地上げ屋が群がるという中に尼崎で、その地上げ屋に追われて逃げ回る、そしてそれまで空き家が多かったのですけど、いわゆる震災復興のための主に穿設業者、それがもうほとんど阪神間の空き家が埋まってしまって、行先もないという大変な状態でこの運動が始まったということなんですね。
 その時一番最初に相談にお願いしたのは、ここに居られるひまわり法律事務所の上原邦彦弁護士で、ひどい現状を言うと、田中さんが来るのを待っていた、この問題を一緒にやらないかということで借地借家人の相談会をドンドン開いていこうということになりました。
 その当時のこと お話しください。-19頁‐
上原弁護士●
 借家・借地人の相談会のことでは、二つのことを言います。
 一つは、相談会が立ち上がった経緯などです。1月17日午前5時46分に震災が勃発し、尼崎の老朽木造家屋が、たくさん壊れて、家主の明け渡し請求が一斉に、ワーッと起こりました。震災3日後には、尼崎やその近辺で空き家は全部押さえられていて、立ち退いても行く場所がありませんでした。そこで、借家人に従来の借家で頑張るための法的知識を与え、安心させることが喫緊の課題となりました。当時、私は尼崎の共産党後援会長をやっていましたので、共産党地区委員会に話をして、借家・借地人の権利保護の説明、質問集会を開いてもらうことにしました。1月29日に阪神大震災尼崎被災借地・借家人の会が結成され、悪徳サラ金退治で勇名をとどろかせていた尼崎民商の田中さんが、会の代表世話人に就任してくれ、また、市議団長の藤本護さんを先頭に立ちあがった共産党の市会議員さんたち、その中には今は亡くなりましたが私の釣り友達の瀬居市会議員もいましたし、今回県会議員になりましたが当時市議団事務局長で活躍していた庄本えつこさん、県会議員の中村まさひろさん、理論家で元県会議員の安田ただしさん、民主団体、労働組合の人たち、地区の人たち、篤志家その他大勢の皆さんが世話人となり、心を一つにして、無我夢中で尼崎のいたるところ、20か所を超える集会場で権利保護集会を開きました。田中さんは運動を組織する天才ですのでそれもあって、3月中旬には会は500人の人たちを組織し、賃料の安い被災公営住宅をたくさんつくることなどが会の運動課題となりました。この会がその年の6月に結成された尼崎借地借家人組合の母体です。田中さんは、その年の3月に定年で、その後は、のちに高利の息の根を止めた大阪の偉大な木村達也弁護士から請われ、大阪でサラ金被害者の会を組織することになっていました。しかし、私は、尼崎で借地借家人組合の運動を組織していくことが田中さんの、ふってわいた天職だと思ったので、田中さん、俺がしゃべっていると思ったら間違いだぜ、神様が俺の口を借りて、尼崎の借家人を守れとしゃべっているに過ぎないんだぜといいますと、そこまで言われると仕方ありませんなあと観念して、会の代表世話人や事務局長を引き受けてくれました。思い出したので、関連して補足しますと、私は地震と借地借家人の居住権についての連載物を毎日書き続け、これらは地区発行の被災対策ニュースの一部として、連日、市内の共同住宅、長屋の密集住宅や避難所などで、何千枚と配布されました。2月13日、これらをまとめて地区の名で冊子にしました。冊子は5000部印刷されましたが、すぐ、品切れとなり、さらに5000部印刷されました。
 二つは、当時の私の神秘体験です。
 何百年眠っていたら、突然、震災で目を覚まされた。気が付くと、弁護士の身体に私の魂は宿っていた。これは便利だ、この弁護士を徹底的に使いまくってやれと酷使しました。3月中旬、会が500人の人たちを組織したのを見届け、私の使命は終わったと思い、再び眠りにつきました。残ったのは抜け殻の弁護士としての私でした。当時、私は二重人格者でした。新約聖書には、もはや、我、生くるにあらず、キリスト、我にて生くるなり、とあります。似たような体験をしました。-19~21頁‐
田中組合長●
 エー私はその時に上原弁護士から言われたことは、いまも覚えていますが、お前、3月に定年だろう、もう、今から民商を辞めてしもうて、この運動をやれというてね。私はまだ尼崎民商の事務局に在籍しているんです。それを言ったら、お前の一年間の給料ぐらい出すやんか、だから、今から辞めて、イヤーそれでもと言うたら100万円出すからそのお金で足らんかったら、俺の友達の垣添誠雄弁護士というのがおるから今から電話するわ、その場で電話して、俺100万円出すから、田中さんがこの運動やるから、垣添さんも100万円を出してくれ、そしたら、ハイ どうぞ、今から取りに来てくださいと、すぐ上原弁護士が出かけて、戻ってきて、帯封のついた100万円をその場でくれたぜと言って私に渡しました。民商は組織ですから、そんな勝手に辞められませんというたら、民商に行って、わしにお前の身柄をくれと言いに行くわ、それで一緒に民商に行ってその結果、民商とこの運動を半日ずつということになった。・・・・・・・-21頁‐
田中組合長●
     ・・・・・調停費用についてお話しください。    -23頁‐
上原さん●
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・法律扶助を通じて弁護士費用が出て大勢の方が助かりました。当時の神戸弁護士会の役員さんたちや弁護士たちは、必死になって被災者の皆さんの相談に乗りましたし、数々の提言を行いました。東日本大震災が起こった時、日弁連で震災復興の指揮を執ったのは兵庫県の永井幸寿弁護士や津久井進弁護士ですが、二人とも阪神大震災の経験や教訓を広範囲に掘り下げてかつ普遍化していたから、それができたのだと思います。お隣の大阪弁護士会の弁護士さんたちも被災直後から何百人も乗り込んできてくれて、無料相談に応じていました。大阪弁護士会は、震災に関する法律問題の本を超特急で出版してくれ、弁護士たちはその本を勉強しながら相談に当たりました。随分助かりました。
 埋まった人たちを掘り起こして近所の人たちが助けました。
 県外から実に大勢の若者たちが「阪神へ、阪神へ」と続々とリュックを担いでやってきて、被災者の救援に当たっていました。ボランテイア元年にふさわしい年になりました。
 震災は、多くの人たちの命や生活を破壊しましたが、同時に、震災に抗して英雄的に立ち向かった人々も無数といっていいほど生み出しました。
 エピソードは尽きません。
 尼崎の組合もそうしたエピソードの一つに過ぎません。-23頁‐
田中組合長
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 正当事由の点で私たちは苦慮しました。・・・・・家主のほうは一級建築士を入れてこれは滅失に等しい、修繕すると高額な費用が掛かる。だからこれは滅失に等しいから退去しなさいと言ってくる場合があってその辺りで裁判になった。それで、ひまわり法律事務所に持って行って、そのやり方について、こちら側の一級建築士に協力を得てやったんです。その辺りの正当事由について上原弁護士からちょっとお話しください。
上原さん●
 借家人の立場に立つ建築家の協力がないと勝てないということです。
 尼崎でREO建築計画研究所を主宰している、一級建築士の佐藤慎治さんに作成してもらって裁判所に鑑定書を出しました。向こうは一級建築士を入れて滅失を主張。こちら側も一級建築士の佐藤さん作成の鑑定書でこの程度の修繕費をかければ十分住めると主張しました。その時、家主側は一級建築士に40-50万円を払っていたと思う。こっちは佐藤さんに一軒あたり4-5万円しか払えない。経済的に引き合わない事件を何件も佐藤さんに押し付けました。今思い出しても心が痛みます。専門家には専門家をぶつける。そうすると裁判所も耳を傾け始め、そこで何とか、妥協できる解決に持ち込んでいきました。
 いま配布された「尼崎に住み続けるために 借地・借家人の居住権を守るトラの巻」の冊子は、あとがきも含めて大部分を私がゴーストライターで作りました。この冊子のあとがきに「本冊子の特色は、この非常時に借家人の居住権を断固守りながらも弱小・零細な家主の経済的立場に配慮したところにあります。法的知識を踏まえながらも、法律論に流されず、社会的道理とは何かについての提言を試みてみました。」とありますね。これがこの冊子の生命線で、当時この立場で折り込みビラその他の原稿を作って避難所などで多くの人々に配られました。
 あれから20年。私は運動を離れており、大阪梅田のヨドバシカメラ前の超一等場所に事務所を移し、テレビ、ラジオ広告で集客し、過払い・任意整理しかやっていません。田中さんから20周年座談会に出るよう言われた時、俺は過去の俺ではないと断ったのですが、田中さんから、先生は尼崎借地借家人組合を作った張本人じゃないですか、私を組合に引きずり込んだのは先生でしょうとまで言われて、仕方がないと覚悟を決めて出てきたわけです。-24-25頁‐
田中組合長●
 (冊子は)よくできています。-25頁‐
上原さん ●
 運動団体の方は、みんなこれを読んで答えていました。大体のことはこれでわかると相談受けるときに言っていました。-25頁‐
田中組合長●
 上原先生は今日限り、地主家主の相談はお断り、借地借家人の相談をしますと宣言しました。私は感動しました。やっぱり人間の善意に応えてやってくれる弁護士がいた。私は嬉しく思って弁護士の中にもこんな立派な人がいることをずーと思っていた。
 目途がついたところで田中さんこれでいいかと聞かれて弁護士は、私が言うのもなんですが自営業者ですので何を売り物にするかは自営業者の自由だから私は言いませんから、後はご自由にやってくださいと言ってその後自由にされています。このこと忘れずに今日借地借家人組合に来てもらって感謝しています。
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 木村達也弁護士が作っている全国クレ・サラ対策協議会の本部が大阪にありまして、大阪に被害者の会があり、被害者の会を震災前に立ち上げ(私が)事務所に居座る約束になっていた。震災で借家人組合ができ放っていたら、田中さん約束していた約束を守らんのかと(木村弁護士に)怒られて、・・・・やがて大阪に行くと・・・・・・全国クレ・サラ被害者の運動に協力してくれる人と知り合えて、クレ・サラ被害を完全になくす法案ができてこれで私も一定の役割を果たし、尼崎の組合事務所に戻ることができました。-25-26頁‐
田中組合長●
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 当初組合ができたとき300人で発足。(私が帰ってきたときに)180人まで後退していた。・・・・・・もう一回盛り返そうということでいま290人まで盛り返してきて、300人まであとちょっとのところまで来ている。・・・・・・・・     -26頁‐
田中組合長●
     ・・・・・・最後に一言ずつ言って終わりにしたいと思います。・・・・
上原さん●
 今から42年前。民商の田中さんが高利貸金業者から借り入れたややこしい破産事件を私と垣添弁護士のところへ持ってきて、それをやり続けてその延長線上で、今は、過払い、任意整理だけをやっています。当時も今も高利貸金業者を相手にしてご飯を食べている点では変わりはありません。当時は暴力的な取り立てがひどく、民商のドアを破壊する個人の貸金業者がいて、その業者は日本刀で殺され、今も犯人は挙がっていません。垣添弁護士は、その後持ち前のクソ度胸を発揮し暴力団退治で暴れまわり、犯罪被害者支援などもレパートリーに加わり、全国を股にかけて活躍し、日弁連の歴史に名前を残しました。
 初めに言ったように私は運動から離れています。金儲けに専念したと言われるとムニャムニャと答えるしかない。東日本大震災から4年4か月経ちました。義援金を毎月送り続けて、1億円を超えました。事務所は今赤字で年末までに1-2億円そこら、貯金を取り崩すことになります。東北3県の震災孤児・遺児基金に毎月送金を続けているのは、あの頃と今とで私の性格そのものは変わっていないからでしょう。考え方は変わっても、性格は20年前田中さんと走り回ったころと全く変わっていない。75歳になりそろそろお陀仏する年になったが、幸か不幸か、性格は変わらない。
 皆さんの運動の今後にかかわることについては、期待するとだけ述べて、それ以上の発言は控えさせていただきます。-32-33頁‐ 

*1 兵庫県借地借家人組合本部 20年のあゆみ 住み続ける権利を守って20年
*2 全国借地借家人組合連合会 会長 兼 兵庫県借地借家人組合 組合長    

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