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母の死

 母が亡くなるなんて、そんなことがあり得るのだろうか。

 母の死に顔は見た。
 火葬場で、骨を一つ一つ兄、私、妹、そして親族が拾い、外科医の兄が詳細な説明を加え、興味深くそれを聴いた。雨のそぼ降る日、親族、親しかった知人たちが集い、郷里の墓石の空洞に、母の骨を置いた。
 それらについての記憶はある。
 しかし、現実感がない。私は夢を見ているのだ。だから、現実感がないのだ。

 母についての私の記憶は、4歳から始まる。4歳。6歳。小学生。中学生、友人の投げたボールが右耳に当たり、右耳の聴力を失った(小学3年生の時、私は左耳の聴力を失い、右耳は、軽度難聴になった。今回、右耳の聴力も失い、全聴力を失った。)。
 母は、私を連れて専門医を訪れたがよい返事は得られなかった。帰りの列車の中で、母は身じろぎもしなかった(その後、奇跡的に右耳の聴力は徐々に回復した。)
 高校生、自堕落な生活を送る私に絶望して、夕方になると、母は、裏の畠で、西日に向かって泣き叫んでいた。
 浪人、それも2浪だ、合格者掲示板に名前がなく、東中野の下宿に帰る途中、母に似た中年の女性が何人も目に付いた。母かと思い近づいていったら、別人だった。それを2度繰り返した。四国に住む母が、東京に現れるはずがない。絶望の中で、私は母を探し求めていたのだろう。
 大学生。社会人、失意の日々。
 司法修習生、神戸で修習をしていたとき、母が訪ねてきて、二人でボーリングをした。その夜、母の傍で私は熟睡した。弁護士、結婚、3人の子の出生。
 弁護士10年目、母を連れて二人でハワイへ行った。ワイキキビーチに直面し屹立するモアナ・サーフライダーホテルのスイートルーム、流れゆく雲を母と飽かず眺めていた。
 4歳のときから、母との間で起こったことを、すべて私は覚えている。

 浪人の日、母を自転車に乗せて裏の田んぼ道を通り、町へ向かっていた。突然母が問いかけてきた。「邦坊(家族が私を呼ぶ時の愛称)は、○○さんが、好きか。好きなら母さんが○○さんのお母さんにお願いして邦坊(のお嫁さん)に貰ってあげる。心配しなくてもいいからなあ。」(なあとは、私どもの地方の方言。母は○○さんのお母さんと親しかった。)
 日は輝き、中空で2羽のひばりがもつれ戯れ睦んでいた。風は柔らかに私の頬を撫でて通り過ぎていく。
 どうして母は私の秘密を知ったのだろう、私は返事をせずに、ペダルに力を込めた。
 口に出していったことはない。しかし、私は何もかも覚えているのだ。

 たしかに、私の母は高齢だ。それがどうかしたとでも言うのか。
 私の母が死ぬはずがない。だのに、人は、母が死んだという。

 これはなにかの嘘に違いない。

(平成18年2月記)